自分のレベルが上がると見える世界が変わります。よく抽象度を上げるという言い方をしますが、今まで違ってみていたものに普遍性を見出せるようになると、いわゆる「頭が良く」なっていき、応用力がついていきます。会社でも上に立つ人間が全ての業務を知っている必要はありませんし、そんなことは不可能です。ただ、普遍的なマネージメントやリーダーシップというものがあるということです。
ただ、見える世界が変わると、今まで付き合っていた周りの人間と意思疎通が難しくなります。ここに出会いと別れという大きな課題があります。有望なベンチャー企業を起こそうとしている子供に親は「公務員になれ」といいます。「医者か弁護士になれば食うに困らない」という親や教師に対して子供は「そんなものはAIですぐ不要になる」といい、その断絶は容易に埋まりません。私たちは小学校の友達と一生付き合うことは稀で、自分の成長に従ってコミュニティを変えていきます。引き寄せの法則というのは、要するに自分のレベルと同じレベルでしかコミュニケーションが取れないということなのです。逆に言えば自分よりも上のレベルのコミュニティには入れてもらえないですし、大げさでなく、先方の話している意味が分からないということになるでしょう。そして、コミュニティを変えようとすれば、今まで付き合っていた人間は「なんで出ていくんだ」「今まで通り仲良くやっていこうよ」と善意から足を引っ張ります。これが上記の典型的な親や教師の姿です。
マタイによる福音書には以下のようにあります。
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
<マタイによる福音書、10:34-36>
イエスの教えを受けるということは、イエスの見ている高い抽象度の世界を受け入れるということです。そしてそれは、今までの世界との決別を意味します。だからこそイエスは、私は平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたと言うのです。家族を仲たがいさせるためにに来たと言うのです。
Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 2006, 00.159.27_PS1.jpg
同じような話は仏教でもおなじみです。
娘を亡くして泣き叫んでいる母親に対して釈迦はこう語りかけます。
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母よ。
そなたは「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。
ジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?
<中村元 (翻訳)『尼僧の告白―テーリーガーター』、p.19>
正直、間近にこんな人がいたらかなり酷いヤツだと思うのですが、この徹底さが釈迦の釈迦たる所以です。
仏教説話を続けましょう。有名な説話に「芥子種の話」、いわゆるキサーゴータミーの説話があります。これは「ダンマパダ(法句経)」の注釈書である「ダンマパダ・アッタカター」に見られる話で、日本でもよく紹介されるものです。
キサーゴータミーという若い女性がおり、不幸にも幼い息子に先立たれてしまいます。彼女は息子が火葬されるのを拒み、「薬を探しに行きます!」といって半ば錯乱しながら家を飛び出しました。そして釈迦と出会い、以下のようなやり取りへと続きます。
「尊い方、あなたは私の息子の薬をご存知だとうかがいました」
「そうです。知っています」
「何を手に入れたらよろしいのですか?」
「ひとつかみの白い芥子種(からし種)をもらってきなさい」
「どこのお家からいただいてきたらよろしいですか?」
「息子も娘も、誰も亡くなったことのないお家からいただいてきなさい」
インドにおいてカラシ種はどこの家庭にでもある、ごくありふれた調味料です。しかしキサーゴータミーは必要な芥子種を見つけることができません。死人を出したことのない家は一件もなかったからです。そしてふと気が付くのです。
「私は今まで自分の子供だけが死んだのだと思っていた。でもどうでしょう。町中を歩いてみると、生きている人間より死んだ人の方がずっと多い」
このような話は東西で、特に宗教で多くみられるように思います。宗教説話だから良いものの、実際にこんなことを言われたら逆に怒り心頭かもしれません。お前は悲しませてもくれないのかと。
しかし、これが「抽象度が高い世界」でもあるのです。見ている世界が違い、思考そのものが異なります。そして改めて考えると、教育というのは恐ろしい行為なのだと身震いせざるをえません。私たちは教育を通じて相手の抽象度を上げ、思考レベルを上げることを目指しますが、それは結果的に「人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせる」ことにつながり、実際にそうなります。そして教える人間はより抽象度を高め、次々に出会いと別れを繰り返していかないといけないのでしょう。
教えるように生きよ、ということを自分に対する大いなる戒めとせねばなりません。