保育園が足りない
最近、山尾志桜里衆議院議員が認可保育園に入園できなかった母親の「日本死ね」というブログを紹介したり、千葉県で保育園の開園が近隣住民の反対で中止になったりと、保育園に関する話題が増えています。安倍政権の主要施策である「女性が輝く社会」においても待機児童ゼロが謳われており、共働き世帯が増える中、保育園の不足は喫緊の課題といえます。
子育て問題(保育園・幼稚園問題)のそもそもの発端は職住分離にあり、自営業が多かった過去にはあまり認識されてきませんでした。サラリーマンの登場と女性の社会進出に伴って「子育てのアウトソーシング」という課題が発生したといえます。
一方、配偶者手当や配偶者控除といった専業主婦優遇制度に加え、多くの企業が男性の産休・長期育休を認めていないこと等から明らかなように、現行制度の多くは主婦中心の家庭観(「男は仕事、女は家庭」)を前提にしています。忌引(これは労働基準法で認められているわけではなく、社会慣習上の休日)よりも遥かにタイミングを読みやすい出産の休暇が男性にあまり認められていないのも不思議な話ではあります。
このような制度はもはや二周遅れで現実味を失っています。今や家族構成は単独世帯と夫婦のみの世帯で半分以上を占めており、女性の就業率もかなり高くなってきていますから(二〇一五年、十五~六十四歳で六十四・四%、過去最高)、「主婦」が家庭で「子供」の面倒を見ているという世帯は二重の意味で崩れてきているのです。
人口減少の実態
広い意味で少子高齢化対策である保育園の問題ですが、現在の人口減少はどのくらいの規模で進んでいるのでしょうか。平成二六年十月の統計では、総人口は前年比▲二十一万五千人、生産年齢人口は▲百十六万人となっています。大分県や石川県、あるいは広島市の人口が百十五万人前後ですから、生産年齢人口でいえば毎年これらの県や市が一つずつ消滅しているのと同じことになります。実需が減りデフレ圧力が強まる中、物価上昇二%を実現する難しさが実感できるというものです。
国の活力の源泉でもある生産年齢人口を増やすには、自国内で増やすか外から調達するか(=移民)の二択しかありません。前者については出生率を増やすか働いていない人に働いてもらうか、ですが、短期的には定年延長による高齢者の組込みか、主婦優遇の廃止による女性の取込みしかないでしょう。「定年」という制度も高度経済成長期の年功序列を前提としており(年収が会社への貢献度ではなく年齢で決まる為、どこかのタイミングで年収をリセットする必要がある)、主婦の問題と同様に制度疲労を引き起こしています。日本は高齢者労働に対する抵抗感が少ない国ですので、高齢者が活躍する場はもっと広がっていくと思われます(例えば中国は高齢者労働への忌避(きひ)感が強い国で、昔話の主人公は孝行者の息子であって、お爺さんとお婆さんは働きません。)
制度変革のコストと行政の役割
日本では戦後の高度経済成長期が華々しかったが故に、「あの時代をもう一度」とたった四十年の過去にしがみついて二十五年間を失っています。一方で、「仕事は男」と男性の収入のみに依存した生活設計は男性にも負担を課しているようで、平成二十七年の自殺者数二万四千人のうち、実に七割が男性となっています。交通事故での死者数(約四千人)の六倍近くが毎年自ら命を絶っていることを考えれば、時代の変化に即した働き方と制度設計の変更が求められると感じます。
重要なことは、このような社会全体に関わる制度変更には新たなコストがかかり、社会はそれに寛容でなくてはならないことでしょう。男女問わず、子育てをする労働者としない労働者がいれば後者の方が企業にとって当然コストが安いわけですが、あえて前者を選ばせるように社会が支援していかなければなりません。環境に優しい商品は気候変動を和らげるコストを含むが故に高くなるように、社会を再生産するコストを含んでいる労働力を選ばなければ長期的に全体が衰退してしまうからです。千葉県の保育園問題にしても、子育て世帯の分布と候補地の可能性を考えれば、ほぼ一義的に保育園の場所は決まるはずです。その建設の是非については最終的に行政(政治)が判断すべき問題であって、個々の住民に意見を聴く話ではありません。社会全体として構造変化を促す心構えが求められています。
編集後記
東京大学名誉教授の奥脇直也先生から弊社推薦のお言葉をいただきました。是非ホームページでご覧ください。
今月で本ニュースレターの発行も丸一年を迎えます。皆様のご支援あってのことと深謝申し上げます。
今月は最近話題の子育て問題を切り口として人口減少問題を扱いました。我が家にも保育園児が居りますが、御多分に漏れず認可保育園に入れず認可外保育園に預かってもらっています。地方の過疎化と東京への過集中を踏まえた短期的な施策に加え、人口の再生産をどのように考えるのか、長期的・全体的な国民的議論が望まれます。