16-10号:裁判を取り巻く空気

辺野古訴訟判決

九月一六日に米軍基地の辺野古移設に関する訴訟で沖縄県側が敗訴しました。正確には、仲井眞元沖縄県知事が行った辺野古沿岸域の埋立て承認を翁長現知事が取り消したのですが、その「取り消し」を取り消すように国が求め、その指示に従わないのは違法だとして、国(石井国土交通大臣)が県(翁長知事)を訴えた事件になります。

判決内容が全面的に国の主張を認めたものとなったため、世間的には国の立場にすり寄った一方的な判決だ、という見解が多いようですが、そうではありません。司法当局のアプローチとしては至極真っ当なものでありました。

世間の「空気」としては、米軍基地の移設に関する国対沖縄県の争いが司法府に持ち込まれ、沖縄県に基地が集中している問題や辺野古への移設の妥当性といったものを裁判所が公平に判断してくれるといった期待があるのかもしれませんが、そもそも司法府は「法の解釈」を争うところであって、政治的判断の妥当性を争う場所ではありません。ある法律の解釈に関して一定の基準を設け、それに照らして現実にマルかバツかをつける機関であって、政治問題を総合的に判断する責任も負っていなければ、能力も意思も持ってはいないのです。今回のケースにおいても、審理対象は仲井眞元知事の埋立て承認が公有水面埋立法の定める条件に照らして違法だったかどうか、という一点に絞られました。一回承認した公共事業を次の知事が覆すこと(いわゆる自庁取消し)は、築地の移転同様、民間の契約関係に多大な影響を及ぼしますから、そう簡単に認めるわけにはいきません。ですので、翁長知事の取り消しが認められるのは、元々の承認行為が違法である場合に限られることになります。

この裁判は、決して「辺野古ありき」の判決でもなければ基地問題全般の方向性を示すものでもありません。単に仲井眞元知事の辺野古埋立て承認が公有水面埋立法に照らして違法だったかどうかを判断しただけなのです(その適否の問題はあります)。


裁判への奇妙な期待

日本ではもともと裁判「沙汰」と呼ばれるように、裁判を嫌う傾向にあります。和を尊ぶ社会において紛争は調和を乱すものであって、解決というよりも解消されるべきものです。不調和を拡大させて固定させる「裁判」よりも、謙譲の精神で不調和を縮小させる「和解」が強く勧められるのもその一環といえましょう。

一方で、最近は辺野古訴訟に限らず、原発の運転差し止め訴訟など、本来裁判で解決すべきでない問題を裁判に持ち込む傾向があるようです。それは国家機関全般を権威と考える「お上意識」からかもしれませんし、誰かが解決してくれるだろうという「誰か」に裁判所がすっぽり嵌(はま)ってしまっているのかもしれません。

そうした世間の「空気」からか、裁判所もまた本来の役割・責任を超えて余計な判断を下すことが増えているように感じます。辺野古訴訟でも判決は軍事基地としての沖縄の地理的優位性や普天間飛行場の返還との関係など、政治判断に関する点にまで言及していますし、高浜原発の差し止めに関しても、大津地裁は原発に関する安全性の判断にまで踏み込んでいます。しかし、裁判官に原発の安全性に関して判断する専門的知見はなく、それは本来的に原子力規制委員会の仕事であるはずです。そこが安全性を認めたものを裁判所が覆すというのは裁判所の自制心が欠如しているようにみえますし、余計な言及をしたせいで「辺野古ありき判決」と批判されている冒頭の訴訟のように、判決の正当性を失墜させてしまいかねない悪手であろうと思われます。


空気からの脱却

多くの課題が山積する中、折しも小池都知事が豊洲新市場の盛り土問題について、「段階的に空気のように決まった」と報告しています。五輪の予算問題もなし崩し的に三兆円まで膨らみ、誰がどこで決めたのかはっきりしません。『「空気」の研究』を書いた山本七平によれば、当時誰が見ても無謀であった戦艦大和の出撃を決めたのは「その場の空気」だったといいます。何かがどこかでずるずると決まっていく、そんな空気の支配も裁判所への妙な期待も、結局は(自分ではない)誰かがきっと決めてくれる、解決してくれるという責任不在・他人依存の甘えに過ぎないでしょう。世間の「空気」が裁判に何を期待しているのかは分かりませんが、政治問題を解決するのは結局我々自身でしかありえません。


編集後記

「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」とは本文に紹介した山本七平の言葉ですが、今も昔も状況は変わっていないようです。毎日の小池劇場に都民として胃の痛い日々を送っています。

今回は珍しく「裁判」を扱いました。大岡裁きならともかく、個々が正面衝突する裁判はやはり馴染みがない人が多いと思います。素人目線の感情論が多いのもある意味仕方がありません。

裁判も「制度」ですが、制度が人間を導くわけではなく、人間が制度を使って自分自身を導いていくものです。裁判の限界を知りながらうまく制度を使いたいものです

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