清規と陋規(ろうき)
先般からメディアを賑わしてきた横綱日馬富士関の暴力問題は、日馬富士関の引退表明をもって一旦は落ち着きを見せているようです。その後、日馬富士関は十二月十一日に鳥取県警により書類送検されました。
事実解明を待つ必要はありますが、多くの日本人に不可解な印象を与えるのはメディアの騒ぎ方と共に、横綱を引退させる程の問題なのだろうか、ということでしょう。力士間の「指導」ということもありますが、被害者である貴ノ岩関は一切表に出ておらず、貴乃花親方の頑なな態度のみがクローズアップされています。
力士同士の指導のあり方に公権力(警察・司法)が介入する、このことに本件の違和感が存在します。それは第一に力士同士、あるいは相撲協会が解決すべき問題であって、もちろん傷害事件となれば警察が出動せざるを得ないわけですが、そこに訴えるべき問題なのかという点が多くの人が首を傾げる要因ではないでしょうか。
「清規(せいき)」と「陋(ろう)規(き)」という言葉があります。陋(ろう)という字は「身分が低い・いやしい」という意味ですが、一般庶民の道徳・規律のことを言い、それに対して知識階級や公権力側の規律を清規と言っています。喧嘩をすることは勧められませんが(清規)、もしするとしても顔は殴らないだとか、刃物などの道具は使わないといった暗黙の了解(陋規)があるものです。表の道徳が清規、裏の道徳が陋規と言ってもよく、力士同士には力士同士のやり方があるはずです。これは我々の文化全般を背景にした暗黙の了解であって、「清規、つまり支配階級の道徳というものは、これは幾ら堕落しても大した事ではない。一方、陋規、つまり目に見えない裏面の庶民の道徳が失われたら、どうにも手をつけられなくなってしまう」と言われる所以のものです(安岡正篤『十八史略』)。
自浄力のない組織
今回の騒動では、貴乃花親方が相撲協会内部の筋の通し方よりも警察への訴えに固執したことが特徴的でした。あえて悪役(ヒール)を買って出ている嫌いもありますが、力士同士の問題を公権力で解決しようとする貴乃花親方にも違和感があれば、一親方の反抗に対して打つ手のない相撲協会自体の不甲斐なさにも違和感があるでしょう。法律という清規で裁いたところで、我々が持つ暗黙の陋規に照らせば納得感のない解決であるといえるかもしれません。
今回はまた、「モンゴル人力士」という点に焦点が当たっていますが、今の角界を支えているのが外国人力士であることは周知の事実です。横綱力士が外国籍というだけで「年寄(日本相撲協会の構成員、通称『親方』)」にもなれないという旧態依然とした相撲協会の仕組みも問題であって、今回の事件には複合的な側面があると見るべきでしょう。漫画『火ノ丸相撲』の作者である川田氏が痛烈に批判するように、「日本人力士が強くなれば、外国人力士がどこで何をしていようが問題にもならない」ことも事実です。
伝統というものは古くて新しいものです。相撲協会も日々新たなりの精神で切磋琢磨・自己維新をしていかねばなりません。戦前の軍部や最近の企業不祥事などと同様、自浄作用のない組織というものは必然的に衰退するでしょうし、衰退すべきなのです。
「問題解決」の真の困難さ
暴力が否定されるべきは当然のことです。ただ、あくまで司法ができることは法律に基づいた判断のみということを忘れてはいけません。本件では傷害罪が成立するか否かしか議論の対象にならないわけで、決して日馬富士関と貴ノ岩関の問題を総合的に解決するわけでもなければ、今後の相撲協会のあり方に対して有効な判断をするわけではないのです。
昨今の企業の問題に重ね合わせれば、コンプライアンスを唱えればよいわけではないことに似ています。法令遵守という意味では守ることが当然であって、むしろ叫ばねばならない事態こそが恥ずべきことです。目に見える「清規(=法律)」の背後には広大な「陋規」の世界が広がり、私たちの日常や国民感情はむしろ陋規によって支えられています。杓子定規な法律や正論、または論理だけで解決するほど世の中は単純なわけでもなく、そこに論理を超えた情理としての人間世界があります。本当の問題解決の難しさとは、そこにあるのではないでしょうか。
編集後記
あっという間に今年も師走を迎えました。今年は寒波も厳しく、体調管理に気を付けたいところです。
最近はメディアを見れば相撲の話ばかりの時期が続き、そんなことは身内で解決して欲しいと思う相撲ファンは多かったのではないかと感じます。また問題の解決を警察に持ち込み、相撲協会とは話をしない貴乃花親方の姿勢を眺めながら、「陋規」という言葉を思い浮かべました。
本来的には相撲協会としてより機敏に動くべきなのでしょう。自分達の問題は自分達で解決することが第一の筈です。自浄作用のない組織は、歴史的にも頭から腐っていきます。