世界はコロナ問題を期にアフターコロナ社会へと大きく変化していきそうです。多くの産業が感染症というリスクを前提に再構築されなくてはならず、今までのあり方を大きく変える必要があるでしょう。今回のコロナが終わっても第2のコロナ、第3のコロナが発生する前提が必要で、「コロナが過ぎればまた元通りの世界に戻れる」というのは甘い幻想というしかありません。
例えば会社の働き方は、また事務所に集まってゴミゴミした島形式に戻るのでしょうか。すでにテレワークでも機能することを証明してしまった場合、そこに戻るのはリスクこそ高まりますが、生産性は上げません(もちろん併用することにはなるでしょう)。交通機関はどうでしょうか。飛行機や新幹線、満員電車のような高密度の移動は推奨されるのか?カフェや飲食店もどこまで感染症というものを意識した対策をとるのか?
今現在、たとえば日本では「休業要請」と「損失補償」という論点で世間がもめています。普通に考えれば企業に対する損失補償というものはありえません。あくまでポイントはこの一定期間、人間が生きていくためのセーフティネットですので、個人向けに一定金額を支給するというベーシックインカム的な発想にならざるを得ないでしょう。日本では当初「世帯当たり」、しかも収入が半減した世帯のみに対し、30万円という複雑すぎる提案がなされていましたが、国民の反対もあって一律一人10万円という方針に変わりました(オペレーションはこれからの議論だと思います)。
ただ、もし日本国民1億2千万人に10万円配ると単純に12兆円、10万円の支給ではもって2~3カ月と考えれば(単身世帯であれば1ヵ月でしょう)、コロナ影響が長引く場合に、ずっと支援し続けられるわけではありません。財政の問題が厳然として存在するのはどの国も同じですが、日本の国家債務はGDP比200%を超えており、先進国で最大です。こういう本当の緊急時に対応できるように日常的な緊縮財政が必要なわけで、日本はそのツケが今来ていると言えるでしょう。
アフターコロナ(withコロナ)については、今までの効率化一辺倒の動き(都市化)から今後は逆の方向へ向かうのではないかという見解が多いように思います。クローズド(閉)からオープン(開)へ、デンス(密)からスパース(疎)へ、「開疎化」(安宅和人)という人もいます。日本でいえば東京への集中をやめて居住費も安い地方へ移り、より「人間らしい」生活の方がよいという価値観へシフトする、コロナは根本的な文明への挑戦なんだ、ということです。
しかしそんなに単純でしょうか?そのような議論ならここ10年以上あったわけで、でもなお人間は都市に集まります。それは文化水準の問題や、デジタルが進めば進むほど、結局直接の接触が余計に価値を持ってくるからです。そもそも都市化は人類の文明そのものでもあり、スペイン風邪その他数多の感染症を潜り抜けたシステムがそう簡単に変わるとは思えません。もちろんその他、インフラの問題もあり、人口減少が進む日本では地方インフラを全て支えていく余力などもはやありません。
しかし一方で、コロナはやはり新しい社会のあり方を要求しています。私としては、都市だけれどもオープンでスパースな都市、効率性も高いけれども感染症にも強い都市、という第3の道があるのではないかと思っています。単なる休業補償を付けていつか「元通り」になるのではなく、産業の新しい形への変容を進めなければいけない。今の制約条件の下、過去の否定ではなく、どうしたら現状を起点に「進化」していけるのか、ここで知恵を絞らなければいけないと思うのです。もし「またいつか元通りになるからしばらく我慢しよう」などという経営者がいるとしたら、それは容赦なく市場から淘汰されることになるでしょう。
最後に、江戸時代末期の備中松山藩(現・岡山県)家老、山田方谷の理財論の中に有名な文章があるので紹介しておきます。
それ善く天下の事を制する者は、事の外に立つて、事の内に屈せず、而(しか)るに今の理財者は悉(ことごと)く財の内に屈す
(本当に天下を動かすものは物事の外に立って本質を俯瞰し、物事の中に屈しないものだ。今の財政官は金銭にばかりに囚われて汲々としている)
山田方谷「理財論」
コロナの短期的な対策は重要です。しかし、その物事の内に屈して対処療法だけ示してもキリがありません。経済を本当の意味で経済にするのは机の上の金勘定ではなく、その国の未来に対する前向きな姿勢、人民の道徳観や覇気、そして新しい変化を受け入れて自らを変えようとする勇気であると考えます。「すべての人が、まず食うことを保証されない限り世の中がよくならない、ということはたしかである。しかし食うことをまだ十分に保証されていないのが現実である限り、ひもじさをこらえて世の中をよくしようと努力することがすべての人の義務でなければならない、ということもまたたしか」なのですから(下村湖人『青年の思索のために』)。