僕たちは憧れの矢になる!~リーダーの必要性

コロナウイルスに関する「デマ」が話題になっています。

酢やお湯でうがいをしたら治るといったものから「某月某日に緊急事態宣言が出る」といったものまで様々ですが、最初に誰がどんな意図でこういった情報を出しているのかはよく分かりません(おそらく○○かもしれないから準備が必要だ、という善意の情報が尾ひれが付く形で拡散していくのでしょう)。東日本大震災の時もこの類の情報は多く流されました。SNSが主要なコミュニケーションツールになっている現在だからこそ拡散のスピードも早いといえるでしょう。

先日、日本の某有名芸人が「デマといっても、どこからどこまでがデマなのか分からない。当初は専門家が若者はコロナにかからないと言っていましたけど、それも今となってはデマですから」と言っていて、まさにその通りと感じたところです。結局は自分の判断を信じて動くしかありません。

ただ、こういう事態において、政府がいかに国民や国際社会と的確なコミュニケーションを取っているかというのが行政の能力を示しているように思います。適切に信頼に足る情報が出されているのか。生活の予測可能性を与える政治的意思決定が速やかに為されるのか。国民が甘受すべき負担を率直に示してくれるのか。不安に喘ぐ国民に対して勇気を与えているのか。そして国際社会に対して日本の立ち位置と果たすべき役割を自信をもって提示できているのか。この点、日本はなぜか東日本大震災の時の原発問題にせよ、今回のコロナ問題にせよ、肝心な情報を適時適切に提供するということをした例がありません。

民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず。
(民衆はこれを信頼させなければならない。理解させようとしてもできる話ではない。)
<論語‐泰伯>

もともと東アジアでは政治は人であり、「あの人が言うなら間違いない」と思わせられるかどうか(それを徳といったりします)が肝になります。細かい内容の是非というよりも、発言の力強さ、質疑応答の対応、真剣さが見ている人を惹きつけるものです。

一方で複雑な現代社会において、そして民主主義を前提とする社会においては、国民に対し適切な情報開示を行い、そのうえで進むべき方向性を提示し、私たちが持つべき信念を伝えることが大切です。そうしたリーダーシップを発揮していけば、デマが起こる余地も小さくなりますし、国民同士が疑心暗鬼になってお互いを差別し合うようなこともなくなるでしょう。日用品の買い占めも抑えられるはずです。

日本では今、医療関係者の子どもに対する差別が発生しているようです。親がコロナにかかる可能性が高いために、お前もコロナ感染しているんじゃないかということでしょう。子どもが自主的にそんないじめをすることは考えにくいですから、結局は親がそういうことをさせているのです。他国では拍手で讃えられている医療関係者に対し、日本ではなぜこのような仕打ちが生まれるのでしょうか。国民の民度が低いといえばそれまでですが、ここでも政治のイニシアティブが弱いことが一因ではないかと考えています。

日本を代表するコメディアンの志村けんさんがコロナウイルスで亡くなりました。追悼のテレビ番組などを見ていると、志村さんは舞台を降りるとテレビからは想像がつかないほど腰が低く、真面目で、静かな人だったそうです。誰に対しても敬語で接していたのだとか(この傾向はお笑い界の方には珍しくないようにも思います。彼らは職業としてお茶の間に笑顔を提供してくれているのです)。志村さんは常に自分の「役柄」を考え、プロとしてその時その時に応じた役を演じていたのだろうと思います。

君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても装いすぎるということはないのだ。 なぜなら、君は友にとって、超人を目ざして飛ぶ一本の矢、 憧れの熱意であるべきだから
<ニーチェ『ツァラトゥストラ』「友」>


Friedrich Nietzsche, 1882 Friedrich Nietzsche, 1882 Nietzsche by Walter Kaufmann, Princeton Paperbacks, Fourth Edition. ISBN 0-691-01983-5

政治家や企業リーダーも同じです。理想のリーダーを演じなければいけません。国民に自信と、勇気と、奮発を与える有事のリーダー。志村さんを惜しみながら、企業としてできることをしっかり示していきたいと思います。

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